【読書記録】教育という病~子どもと先生を苦しめる「教育リスク」~ 光文社新書 (内田 良, 2015)
全体として同意できるが、一点だけどうしても解せない。
全体的に
- 教育の現場において、子供や教員を(主に暴力・事故によって)傷つけるリスクと、それに対する今までの科学的根拠(著書では”エビデンス”という言葉を使っている)への意識の無さを指摘した本
- エビデンスがどうこう言う以前に、単に関係者が考えてないだけだと思うが・・・
- 一般論も述べられているが、主に「組体操」と「柔道」についてを中心に今までの問題点が述べられている
- 10段ピラミッドとかみたいな無駄な生命リスクを全体に負わすなとか、多様な家族があることを前提にしろとか、感動がリスクを見えなくしてしまっているとか、ほとんどかかれている主張は「当然、まったくその通り」だと思う (一部を除いて)
- 「教育という病」というぐらいの題だから、「そもそも学校なんかイラネ」とか「教員が勉強以外の指導なんかするな」とか、現在の教育自体が悪であるという主張まで検討されているかと思ったが、そうではなかったので、そこは残念。(題名としては「教育現場の病」ぐらいが適当なのでは)
- 個人的には、小学校だ中学校だにおいて、たかが教員ごときが道徳だの精神論だの偉そうに講釈垂れること自体間違いだと思う。専門外のこと一切喋るなとは言わないけど、学校は勉強しに行くところなので、勉強だけ教えてればいいかと思っている (その中で結局哲学・思想だの社会学だのにある多様な意見を扱う時があるだろうし、その知識を得れば道徳なんか自分で考えるだろう)。もちろん部活なんかだってしたいやつがしたいときにすればいい
「1/2成人式」
- 1/2成人式とは
- 成人の半分 (10才) の時点でよく小学校で行われているイベントらしい
- 「保護者に感謝の手紙を渡す」「保護者から感謝の手紙を貰う」「名前の由来や、誕生時の写真を知って生い立ちを振り返る」という事が行われるようである
- 親がいない場合や、親が離婚・再婚したなどで変わった場合 (新しい親が子の過去を知らないので生い立ちを振り返れない)、親から虐待を受けている場合などに、子や親が意味もなく苦心したり傷ついたりする
- 「家庭というものは私自身に取っては牢獄でしかなかった。父は暴力的で何度も私を殴ったし、・・・」(本書にある体験談より)みたいなクズ親が現実にいて、そんな親に感謝しろなんてのは不可能。
- 子供によっては”空気を読んで”、「笑ってごまかしたり真実を隠そうとする」(本書より) ようである (美談化)。まぁ想像に難しくない
- 筆者は家族をわざわざ絡めない形でのイベントを提案している
- 「学校教育というのは本来、子供の家族背景を問わない場として設計されたものだ・・・いかに家族背景の影響を低減するのか、それが学校教育制度の使命なのである」(本書より)
- こんなイベントがあること知らなかった。これは苦痛だ。僕らのころは無くてよかった。
- 確かに少なくとも家族を絡める必要はないし、まぁ個人的にはそもそもこんなイベント必要ないと
- そもそもの成人式ですらわざわざ公金かけてやる必要ないだろみたいな話が出ている
- と、例えば無駄な金がかかったり、意味もなく傷つく子供がいても「感動するから良いだろう!!」みたいな冷静さを失った意見が出てくる、という構造は本書で指摘されているのとおり
- 幼稚園のとき「父の日」とか「母の日」に似たイベントがあった気がする。これも同様の問題を抱えていると思う。
- ていうかそもそも「母の日」「父の日」の存在自体今後問題になりそう (なる時代は来るのかな)
- ただ意味もなく毎年日付がきたら「感謝」とか言ってプレゼント渡すような感じ。ある視点から見れば非常に気味が悪い。
- 大抵の人間にある程度まともな両親が居るであろうし、年中プレゼントだ自分へのご褒美だ産業界が言ってる現状ではこう言う問題提起はあまりされない
- 「公開の場において、感謝が強制されるのである」(本書より)
- なんかもうあえて言葉にするとすげー気持ち悪くて怖い言葉
- 美談化に関して: 「児童虐待へのまなざし ─ 社会現象はどう語られるのか」
- あとで読む
- 『「感動ポルノ」(Inspiration porn) とは・・・健常者の利のた利益のために、障害者を感動の対象としてモノ扱いすることを指している。・・・個人的な空間ではなく、学校という公的な空間で、集団的に遂行される。その意味で「集団感動ポルノ」』(本書より)
- あとで調べる (なんかすぐに何時間テレビとかっていうのが意味もなく頭に浮かぶ)
運動部での暴行・障害 (3章)
- 『「体罰は許されない」という言い方は、議論を混乱させるだけである。そこを行動レベルに落として、「暴行はやむを得ない」または「暴行は許されない」・・・というかたちで、議論がなされるべきである』(本書より)
- この点に関してはもうずーっと前からまったく同じようなことを思ってた。理由が何であれ、人を叩いたら「体罰」である以前に単なる「暴行」だし、それで怪我をさせたら「傷害」でしかない(もちろん死んだら殺人にだってなる場合もある)。これは学校でも一般社会でも一緒。そこから先は教師がどうこうの話ではなくて警察の入る場所になる。
- 言葉に関しては「いじめ」も同じようなことを思う。一方的に蹴ったり殴ったりしたとしても「暴行」とかとは言わずにすべて「いじめ」と言う。怪我をさせても「傷害」ではなくて「いじめ」。いじめられるほうが者を盗まれたり、金をとられたりしても「窃盗」「強盗」ではなくて「いじめ」。単なる犯罪を「いじめ」と言って、単なる学校内の出来事的な感じに終わらせようとする感じ。
- 『暴力教師は、学校に守られている。・・・暴力は指導の一環で生じたことと理解されるからである。「行きすぎた指導」といった表現はその辺の感覚をよくあらわしている。』(本書より)
- 確かにこの言葉もよく聞く。これも上と同じことを思う。もはや指導ではないだろ。
- そもそも的にこの辺の話で言うと、「教師は高い道徳性を備えた人格者なので、適切に暴力を使って指導できる」みたいな前提が少なからずありそうだけど、個人的にはその面で教師を一切信頼していない (=教員は全員クズということではなく、その他一般人と同じ程度の人間だろ、という意味) ので、上にも書いたとおりそもそも精神面での”指導”なんてさせるべきじゃないと思う。
部活動について (4章)
- 『先生も生徒も、本音は「休みたい」』『「土日にまで、なんで部活動やるの?」と先生に尋ねると、「生徒がやりたがるから…」という答えが帰ってくる。他方で、生徒に同じこと尋ねると、「先生が、やるぞというから」だと言う。なんだか、不思議な事が起きている。』『生徒の「休みなき部活動」は、「みんなやりたいと思っている」との勘違いのまま、進行している可能性がある』(いずれも本書より)
- これはワロタですね。まぁもう中学のころから気づいてたけどね。みんな部活やってて「大変だ」「やりたくない。嫌だ」ってはっきり言ってたのになぜかやってる。頭腐ってるんじゃないか
- しかも厳しく厳しく部活やったところで、まわり見たところだとそれが人生において、あるいは仕事においてすごく役に立ってるってような人ほとんど見ないしね。まぁせいぜい日本型の無駄に長時間働くような会社に適合するための訓練にはなったかな。そういう意味では、この部活で身につけた変な根性は日本社会の癌ですらあるとも言えそう。
非常に残念だった点
- 体罰についての部分から引用
科学的スタンスを重視すればこそ、ときに科学から潔く降りることも大切である。エビデンスがあるときに、そこに意味を与え、評価を下すのは、一人の人間である。・・・(中略)・・・
私自身は、暴力には指導者には指導者においても生徒においても、一定の効果があると考えている。そのようなエビデンスが出ている以上は、「効果が無い」「強くなれない」などと、無責任なことは言えない。・・・(中略)・・・
その現実を受けて、そのうえで一人の人間として、私はここに表明したい。暴力には効果がある。そうだとしても、もうやめようではないか。暴力に代わる、効果的な指導方法を生み出すべく、みんなで知恵を絞ろうではないか。体育の専門家、教育の専門家、学校関係者は、暴力なしでどのような指導が可能か、追求していかなければならない。
今日はもう、暴力に頼る時代ではない。言論に頼る時代、知性に訴える時代なのだから。
たとえ対象が何であっても、「一時的に科学から離れて考えること」や「論理飛躍をしているが、直感を信じてみる」事が問題の解決にむけて大きな役割を果たすことがある、という点については同意する。また科学をどう使うかという点に関して最終的に人間が判断をくだすべきであるのもその通りであると思う。
しかし、科学から離れたり、論理飛躍したあとに出た仮説や主張について、その後何も裏付ける必要が無い、というのは大きな誤りである。本書では科学的根拠を重視するというスタンスをとっておきながら、もう最後はそれを全て手放して、論理飛躍した結論を適当に示して何も検討せずに、まったく科学や論理から離脱したまま終了、という本書のこの部分の無責任な態度は非常に強く疑問を感じる (裏切られた事に対する怒りすら覚える)。知性に訴える時代なのだから、その知性を捨てるような事は断じて許されない。
まず[仮説A]「今日はもう、暴力に頼る時代ではない。言論に頼る時代、知性に訴える時代なのだから。(=暴力に頼るべきではない)」という点については、おそらく多くの人間は自然に受け入れられるであろう。仮にこれについて議論するとしたら、まず根底には「人類全てが幸福になる社会を目指す」という目的 (これは人類の”公理”だと思う) があり、「これまでの歴史上、暴力が多くの人類を不幸にしてきた」という事実があり、結論として「暴力は可能な限り減らすべきである」という結論に至ることになると思う。(もう少し細かく根拠付けは必要だが)
ここを一つの議論のゴールとして考えたとき、仮に[仮説B]「暴力が一定の効果がある、という科学的根拠がある」が事実だとすると[仮説C]「暴力が一定の効果があり、教育、社会、または人類の幸福のためには活用するべきである」という[仮説A]と相反する結論が得られそうである。しかしこの[仮説B]と[仮説C]の間には
- 「なぜ”効果”が得られるのか」
- 「そもそも”効果”とは何か」(e.g.効率的にオリンピック選手ができるなど)
- 「その”効果”による教育が、社会や人類の役に立つのか」(e.g.オリンピック選手を作るために暴力を働く社会的意義があるのか)
- 「その”効果”は部活レベルの場でそもそも必要なのか」(e.g.例えば趣味で野球をやってる人間を殴る意味は何か)
- 「その暴力による”効果”を上回る教育上の副作用はないのか」(e.g.暴力の連鎖が起こらないか)
など、数多くの疑問が残る。
これら含めて数多くの解明されるべき疑問があるにも関わらず、(少なくとも本書では) 手つかずのまま、もう科学や論理ではどうしようもないという態度をとるのは誤りである。これらの疑問を全て検討しつくし、それでもなお「人類社会全体の幸福のために体罰は必要」という結論が得られるのであれば、むしろ体罰を積極的に活用すべきであるとすら思う。(精密に検討すれば、結論としてそうなるとは思えないが)
「体罰は容認されるべきである」と考える人間に対してその論を否定し暴力を排除するには、科学的な裏付けを伴い、論理的である主張が絶対に必要である (「人類全ての幸福」という根底を共有できない人間はどうしようもないが)。そのためには、まず「スポーツ技能向上に対して、体罰が有効である可能性がある」という主張含めその他肯定的であっても科学的事実であれば正しいと認め、「それでも社会全体の幸福のためには、暴力を使って教育してはならない」という結論に至るまでの論理的な議論を展開しなければならない。さもなければ「暴力はもうやめようではないか。」と勝手に論理飛躍した表明をされたところで結局、精神論に対して精神論をぶつけるだけの不毛な議論になる。
おそらく本書では学校教育で部活をやる (あるいは学校で教育する) ことがそもそも前提として固定されてしまっていて、その外側の「社会にとってそもそも(部活や学校が)必要なのか、有用なのか、そうだとしたらどの部分がどのように有用なのか」という視点に立てていないのが問題だと思われる。そういう意味でも、このエントリーの先頭に書いたとおり『「教育という病」というぐらいの題だから、「そもそも学校なんかイラネ」とか「教員が勉強以外の指導なんかするな」とか、現在の教育自体が悪であるという主張まで検討されているかと思ったが、そうではなかったので、そこは残念。』である。