学校の課題とか、エントリーシートとか、たーーーまに相談されたりします。
(頻繁ではありません。なのでここにかいた事はあてにならないかも。。。)
そういうものって「○○についてどう思いますか?」とかの質問に対して、
その解答をするっていう事が課題になってることが多いようだけど
毎回思うことがあるので自分のためにもまとめてみようかなんて思ったり。
解釈(定義)をしっかりする
特に小さい設問の場合に怠りがちなのが、問題の解釈。
問題に対して曖昧な、ゆるい解釈をしたまま解答しようとしている。
その結果、回答もあやふやになったり、迷走してしまう。
要するに、『質問読む→解答を書く』というショートカットをしている場合。
これでもかけるような問題であったり、論理的な”ゆれ”が許される性質のものならばいいけれど、
そうでない場合、ショートカットせずにその間に明示的に「解釈」という段階を入れる必要がある。
例えば、
ネットは、「引き篭もり」になり、「想像力」が無くなって、結局は「バカ」になる。だからネットの利用を制限するべきだ。
(テリー伊藤さん)
ネットとは何か?引き篭もりとは何か?想像力とは?バカとは?
これに対する答えを考えるのが”解釈”という事になる。
さて、細かいところにいくと、解釈にも種類がある。
とりあえず「世界の解釈」と「自分の解釈」と二つに分けて呼ぶことにします。
(1)世界の解釈
世間の一般常識とか、質問者とか、質問文に出てきた人の解釈、質問の背景から導き出される解釈を考える。
この解釈に関しては、全体(出題者や、解答者、議論している人全員)で一意的である必要がある。
一般的に、ある言葉があったとき、その意味は辞書に乗っているものが、
この世界でコンセンサスがとれている意味、という事になる。
つまり、辞書に書いてあるとおり解釈するのが普通、ということ。
ただし、すべてが必ずしもその通りとは限らない。
意図的に違う解釈をさせるような場合があったり、その議論(質問)のみでアドホックに定義されている場合、あと質問を出した人が誤った(=一般世界とは違う)解釈をしている場合がある。
このような場合は、辞書ではなくその定義に従うべきだ。たとえ出題者が誤った解釈をしている場合でも、です。なぜなら、初めに書いたとおり、この”世界の解釈”は全員で一意的であるべきだからです。
ここでその世界の解釈に従わずに解答をすると、後々議論がかみ合わなくなったり、結局あげ足をとるだけに終始してしまったり、的外れの解答をすることにつながる。
上の、テリー伊藤さんの例では辞書に載っているとおりにほとんど解釈が出来るでしょう。
ここで「ネット」の意味を”網”ととらえて、「漁師が網を使うことを制限するべきだ」という主張をしている、と解釈をしたとする。そうすると、「漁師が網を使うと引き篭もりになるというのはデタラメだ」と批判出来る。
しかし、この批判がナンセンスなのは明らかでしょう。
(2)自分の解釈
問題によっては、自分なりの解釈を求められる場合があります。感情的な部分とか、クリエイティブな部分によくあるのかな。わからないけど。
解釈をどうするか、は自分次第なのでいいとして、重要なのは次のようなことだと思う。
- どこまで自分の解釈をすべきか見極める
- 自分の解釈は、世界の解釈の中に収まっている(辻褄があっている)か
- 自分の解釈を、明示的に宣言する
(いいものが出てこないので例は省略・・・)
[1.]については分かると思うけど、要するに、相手が定義している言葉を自分が新たに解釈を付け加える必要はなく、かつそうすべきでない、ということ。
自分で解釈する領域であっても、好き勝手にやってよいわけではなく、議論全体での整合性をとる必要はある。それが[2.]。全体で辻褄が合わなければ議論が破綻するのは当然。
また、その解釈は明示的に相手に示す必要がある。そうでないと、自分のアウトプットを正確にとらえてもらえない可能性が出てくる。
解釈(定義)から見えてくる論点
解釈を明確にすることで、ようやく論点が見えてくる。
たとえば、上のテリー伊藤さんの例であれば、「ネット」を「インターネットを使う」ととらえれば、インターネット以外、つまりテレビとか、新聞とか、マンガとかはどうなんだという話ができる。
この例で難しいのは「想像力」という言葉でしょう。テリーさんがこの言葉をどういう意味で使っているか、正確な事は知りません。
一つは、新しいものをイメージする力、ととらえれる事ができるかもしれない。その場合、
自分のウェブページやブログを作ることは、想像力を使う(=新しい物事を生み出す)訓練になる。それをサポートしてくれる”ネット”は想像力をむしろ増強させる事につながるはずた。
という主張ができるでしょう。
もう一つは、過去の情報を思い出す力、という意味で想像力と言うものをとらえることができる。そうすると、できる主張は変わってくる。
“ネット”は想像力をダメにしているわけではない。過去の記録をすべて記録することができるため、想像力が必然的に不要になってしまっているだけだ。必要のないものは淘汰されていくので、想像力が消えていくのは仕方がなく、またそれを防ぐ必要もないと思う。
この様に主張できる。
しつこく書くが、議論をする上ではこの解釈は一意的であるべき、である。つまり、上の二つの意見は一般的に両立しない。つまり、一意になるように可能な限り質問者に解釈を問いただすべき。
ただし、課題の種類によってはこれが許されていたり、わざと多義的な言葉を使っていたりして、”自分の解釈”をさせる課題もあるよ、ということ。
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・・・と、まぁ真面目に書いてみたけど、自分は正直ここまでやってない気がする。面倒だからねぇ。
まぁそれはそれでいいんだけど、いざというときにちゃんと出きるように訓練しなきゃなぁー